「水のいのち」を演奏するにあたってV ・・・・その音楽について 【文:尾崎 徹】 |
「雨」 |
ピアノのアルペジオが(一箇所を除き)途切れることなく続いていく。全てのものに「雨」 は、好むと好まざるとに関わらず平等に降り注いでいるのである。当然、歌にも休符はない。これは、絶え間なく降り続く雨のそのひと粒一粒を現しているのだろう…。降りしきる状況、生きているものを含めたこの地全てに満遍なく平等に降り注いでいる状況表現が歌とピアノに要求されている。つまり、パートは次のパートへ、パートからピアノへと受け継がれ、全てが最後まで引き継がれていかなければならない。他パートのメロディであっても私たちは自分の節の一部と思わなければならない。 |
「水たまり」 |
前曲の「雨」と打って変わって休符とスタッカートが多用されている。スタッカートは、水遊びをしている状況ではない。全て私たちを現す鏡、見え隠れする私たちの姿かもしれない。一方、休符は休みではない、むしろ次の言葉をつなげる接着剤の役割を果たしている。つまり休符の次に来る8分音符はすでに休符から音楽として始まっていることに気づかなければならない。そして、言葉のアクセントは休符の直後の8分音符にあることを常に感じていることが必要。言い換えれば本来強拍となる小節の1、3拍目に来る音のエネルギーは、殆どその半拍前の8分音符に移動していることを認識しなければならない。休符はその大切な8分音符を歌うための準備なのだから、「水たまり」もまた「雨」と同じく途切れることなく音楽が続いていると考えるべきであろう。 |
「川」 |
「水たまり」のこがれが「川」の歌詞にも反映されるが、音楽の進みはイントロのピアノにあるとおり「低いほうへ」ゆくほかはない。最初は怒りであっても遡れない想いは次第に残念さが込められていくだろう。つまりAndante mossoからの8分音符は怒りを表す鋭い音ではなく、ピアノの16分音符を感じる重い音で表現をした方がより想いは伝わるように思う。そして再び現れるAndante mossoには残念さもなくむしろ私たちの存在が何であるかを自覚することで曲を閉じる。音楽もそう演奏されるべきである。 |
「海」 |
私たちが16分音符で波を表現しているのに対し、ピアノはそれを3、5、7連符で現し、それによって自由に不規則にうねっている様がうかがえる。人間界の時間を4拍子で、自然界を3拍子で同時に表現する手法は高田三郎が良く使う手であるが、この曲に関して言えば歌の流れをピアノでより自然に表せるよう工夫したのだろうか。 |
「海よ」 |
いきなり2、4小節目の部分に、「雨」のSop.歌い出し2、4小節目の音が形を変えて現れる。作曲者が1曲目の回帰を考えてのことかは不明だが、半音をうねるように手繰る手法はロマン的であり、不安定な切なさを感じさせ、高田三郎はこれを多用する。ただ、この詩を読めば書かれてある音型と拍子が忠実に表現されていることで、「海よ」の詩の流れは極めて自然に運ばれていく。 |
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